パンドラの箱
小学2年生の運動会。
かけっこで最後尾を走る私は笑顔だった。当時は小児喘息で発作がでたりして、度々入院していた。少し運動しただけで苦しくなって蹲っていたから、かけっこの時に思いきり走っても苦しくならなくて嬉しくて、楽しくて、順位なんて二の次だった。
傍目からみればヘラヘラしながら走っているように見えたのだろう。
かけっこの後に父親から真面目に走るようにと叱られた。理不尽に怒鳴られ、説明する隙もなかった。
皆が当たり前のように出来る普通のことが出来ない。
そんな私にとって、些細なことでも普通に出来ることが本当に嬉しく、楽しいと思う子供だった。
出来て当然という教育方針の両親には普通以上のことしか話せず、本当の気持ちを分かって欲しいという欲は子供の頃に諦めた。
だから、大事にしたい本当の気持ちは、ぎゅっと抱きしめた後に、その都度パンドラの箱に仕舞った。
時折、箱から出してそっと抱きしめる。それで良かった。
子供の頃の絶望、心震える歓び、本や人の温かさ、亡くした子供達への母性、叶わない願い、本当に欲しかったもの。
気持ちを誰かと共有しようなんて思いもしなかった。
私の気持ちなんて分かる人なんていない。
分かったと言われても素直に受け入れられるわけないと思っていた。
だから、思いがけず、パンドラの箱を一緒に開けてしまって動転した。
分かってくれる人がいるのかもしれない。
話したくて話したくて、いつもはコントロールできる気持ちが暴走した。
そう思うことは悪いことではない。
でも、気持ちを共有するべきではない。
分かっている。
ずっと誰かに本当の気持ちを話したい、気持ちを分かって欲しかったんだと気付いて更に苦しくなった。
我儘で身勝手で合理的ではない私の本当の気持ち。振り回されるのは自分だけで良い。
誰も巻き込みたくない。
冷静に考えると、なぜ私が発信を続けるのか?発信を続けられないくらいなら、仕事を辞めることを厭わないのか?すべては発信することこそ私の本当の気持ちだからだ。
発信すること自体が私そのモノなんだと気付いた。
誰かに理解されたいと渇望していたことは認める。その気持ちと向き合わせてくれたことに感謝する。
だけど、パンドラの箱はいつもの場所に戻す。
そう、記している今でも話したい気持ちがある。
でも、話すべきではないことも分かっている。
折り合いをつけたいから書き残す。
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