透明人間

2016年に最初の子「のんちゃん」を9週で流産した。

2017年に2番目の「元気ちゃん」を妊娠したが、異常妊娠である胞状奇胎・侵入奇胎で堕胎した。

2018年に3番目の「かなちゃん」を妊娠するも、再び胞状奇胎・侵入奇胎で堕胎した。


胞状奇胎の確率は、妊娠1件につき約1000~2000回の妊娠に1回。再発のリスクは約2%とされていて、非常に稀な症例のため、原因究明のため、現在も大学病院で遺伝子解析中だ。


私は我が子を亡くした運命をいまだに受け入れられない。

妊活卒業できたのは、苦しみに苦しみ抜いて気づいた悲しい決意「産まないことも愛情で最善」だとわかったから。


だけど、3人を亡くした悲しさや苦しみはそのままだ。


以前は楽しみにしていた親族の集まりにもいけない。

同じ遺伝子のはずなのに、わたしだけ難病になり、子供を亡くし、産むことさえも出来なかった。

「なんで私だけ?みんなは普通に何人も妊娠して出産しているのに」

いつもは考えないようにしているネガティブな感情が沸々と湧いてくる。


同じ月齢の子もいる。何より辛いのはどんどん成長していく子供たちをみることだ。

私の子供たちは産まれなかった。だから成長しない。

産まれなかったらいないのと同じ。だれからも認識されない。透明人間だ。


楽しく生きていこうと前向きに生きようとしても、親戚の集まりに行くたびに、わたしの子供が透明人間と感じてしまう。くやしくて、誰かのせいにして責めたくなる。叫びたくなる。

こんな気持ち、誰にも分からない。

でも、その一面の感情だけで日々を過ごしているわけではない。

毎日、楽しいことを探している。

1つの感情に飲み込まれず、全体を俯瞰でみて楽しいことを作りながら生きていく。

楽しい人生だったといって命を全うしたいから。


その表面だけをみて、勝手に判断して、もう大丈夫だろう。と勘違いしないで欲しい。

産まれたか、産まれてないか?じゃなくて、自分の子供がなくなったことを想像してほしい。

それでも、普通にあの場にいることが出来ますか?ほかの子供の成長を心から喜べますか?


ありとあらゆる手で参加しないといけない感じにしないで欲しい。

ただ、そっとしておいてほしい。



2018-03-30 23:23:00


今日は37才の誕生日。 私の両親が言ってくれていた言葉を思い出す。 

 『ハルが産まれて、ホントに嬉しかった。人生で1番嬉しかった』と。 

 今日一日、その言葉がぐるぐる回っていた。

 産まれたての私を抱いて嬉しそうな父の写真、幼少期の私の話をする母の愛おしそうな顔。 

誕生日なのに、 産まれて良かったと思えない。産んでくれてありがとうと思えない。

むしろ、こんな思いを経験するなら、産まれてこないほうが良かったとすら思ってしまう。

 お誕生日おめでとう。 だなんて思えない。


 ハッキリ分かった。 

もし、私が染色体異常で遺伝するものならば、私の子供も同じ思いをするかもしれない。

 産みたいと思うのはエゴなのかも。 

自分の体に裏切られて、悲しい思いを重ねるのは、私で止めないといけない。 

 こうしてあげたい。 あぁしてあげたい。 いろんな気持ちがあるけど。 

 のんちゃん、元気ちゃん、かなちゃんが産まれてこなかったということは、何か問題があり。 遺伝子異常の可能性も考えられる。 

 そう思うと、産まないことも子供に対する愛情なのかもしれない。 

 人が人生で1番嬉しいと感じる幸せを、手放すことで、 私の子供が私のように苦しんで、運命を半ば強引に認めさせられるようなことから逃れるんじゃないかな?と。 

 苦しいから。 

そして、この悲しみは、きっと私以外の誰にも分からないだろうから。

 私でこの遺伝子を止めることが、私の子供たちへの愛情であり、のんちゃんと元気ちゃん、かなちゃんが命をかけて、私に伝えてくれたことなんじゃないかな。 

そう思います。


まいにちまぜごはんの日々の暮らし

まいにちまぜごはんのハルの「楽しいはつくれる」暮らし

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